中華五術

【風水】陰宅風水で人助け。救貧先生 楊筠松の残した選地術

救貧先生。大地に立つ楊筠松(よういんしょう)

唐代から南宋までの時代(紀元618年〜1279年)は、風水学の全盛期にあたった時期です。
風水学が学術体系としての体制を整えると同時に、「巒頭派」と「理気派」の二派に分かれ、発展していった時代でもありました。この時代、風水は、堪輿学と言われています。この時代に陰宅風水で人助けに奔走した人物がいました。

楊 筠松は「巒頭派」の始祖特に唐代末期から南宋に至る時代いわゆる、五代十国の乱世の時代で、凶運を避け吉運を求める人民の願いに対して、数多くの風水師達が人民救済を掲げて登場し、その術を競い合った時代でした。

★巒頭派とは 目に見える形、地形から大地の下に流れるエネルギーを観る方法
★理気派とは 自分が立っている位置からの方位や時間から流れるエネルギーを観る方法

唐代末期に陰宅風水で人助けに奔走し、人々から「救貧先生」と呼ばれ親しまれていた。楊筠松です。
およそ、風水というものを語るうえで、「楊筠松」の名をはずすことができないといるほどの人物です。後世に与えた影響からみても、歴史を通じて最も重要な風水師であるとも言われる人物です。その知識が今日の風水学の主流をなしてるため 風水の祖 風水の賢者として知られています。

風水発祥地のひとつである。江西省三僚村の出身で唐朝の高官金紫光禄大夫(きんしこうろくたいふ)の職について、宮廷風水師となり、霊台(天文台)を管理していましたが、黄巣の乱(唐末期に起きた塩の密売人黄巣らを指導者とする農民の反乱。)をきっかけに退官しました。
楊筠松は、混乱に乗じて、宮殿内の「瓊林府庫」から玄宗皇帝が秘蔵していた堪輿学の秘書を持ち出し、黄巣が長安を陥落させたあと、断髪して崑崙山に入って、風水を極めていきます。堪輿学(風水学)の秘書を体得する中で大地のエネルギーが形地を造ることをしりました。これが後に言われる 巒頭派 です。

これは、大地のエネルギーが盛り上がるのが山とみて スムーズに流れる平地 エネルギーが貯まりこむ盆地といった地勢を判断するのが「巒頭派」と呼ばれる存在で、その中で中枢を果たしていたのが 楊筠松でした。

江西派の代表格

時代が過ぎていく中で、陰宅風水に重点を置いてきたのが、江西派といわれる風水集団です。もっとも、楊筠松が生きているときに江西派と名乗っていたわけではありません。

貧困を救う楊筠松とその弟子の曽文迪の功績の故、時代を過ぎていく中で、こうした、巒頭派のことを、楊筠松の出身地である江西省からとって、江西派とも呼ばれています。

楊筠松は、風水につい遠くの書物を残しています。その一つに、『疑龍経』『撼龍経』という書物があります。この書物の特徴は、水口を論じ、向(こう)を論じ、穴を論じ、龍脈を論じている。こうした風水についての理論体系をつくってきた。

龍脈についても、形勢(けいせい)の標準を作り出し「形勢法」の基本的ひな形を作り出したのが、楊筠松でした。

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玄宗皇帝が秘蔵していた堪輿学

郭璞(かくはく)の「葬書」には、風水の説く「気」が存在していて、地勢(ちせい)としての大地に流れる大いなる「氣」の流れも見つつ良地を探索していきます。そこには、大地に流れる「気」は、その地勢、地形が反映して形として現れていると見るとありますが。そのもととなったのが玄宗皇帝が秘蔵していた堪輿学であり、楊筠松がつたえた 「巒頭派」 の技法でした。

玄宗皇帝 というより楊貴妃といった方がわかりやすいでしょう。楊貴妃を溺愛したのが 玄宗皇帝 です。
瓊林府庫(けいりんふこ) は国の財政の登記等を置いている内蔵庫で要は機密文章を秘蔵する倉庫なのですが、 高官金紫光禄大夫(きんし‐こうろくたいふ)の職 にあった 楊筠松 だったので 瓊林府庫 にあった 堪輿 (風水)の資料を持ち出せたのでしょう。

風水といえば 

玄宗皇帝が秘蔵していた堪輿学の秘書を会得し、何よりその卓越した風水術によって多くの貧者を救済したことから「救貧先生」とも「楊救貧」とも呼ばれ、人々からは、当時はもとより、今日に至るまで尊敬されつづけています。この時代、陽宅風水ではなく、父母が亡くなったときにお墓を決める陰宅風水で人助けしました。

風水といえば 家を見るとよく言われますが、楊筠松の風水は陰宅風水が主流です。
お墓の位置と水の流れに対しての角度によって大いに変わってきます。お墓を置く位置や角度が一度違うだけで運気が変わるので、偶然の産物として出てきているわけではありません。

風水という言い方をし始めた郭璞もまた、すばらしい風水師ではありましたが、風水の元祖、易のエキスパート、スーパーフォーチュンテラーといえば、管輅の名を記憶してほしいものです。

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お墓の建てる形、角度 墓石の置き方を見る。


実際は、風水とは、「選地術」なのです。つまり、人が住むによく 気分がいい状態を維持できる土地を探し出す技法です。その中で巒頭派と言われる立場の風水師たちは、土地の地形を精査し、過去、このような場所に住めばこうなるといった 統計学にも似た学問です。

ただ、その背景の中にもうさん臭いと思われるものも確かにあります。
例えば、古代中国では 死後、肉体は、地に戻り万物の源、五行に戻るのだとして、お墓の位置によって、その後孫の生き死にを決定するとして、お金を持った貴族たちは優秀な風水師を抱えていたりしました。


死後肉体は滅びますが、万象に影響を与え、万物の源に戻り 後孫に影響を与えるので、よい場所に葬られたら良い影響を与え、悪い場所に葬られたら悪い影響を与えるというのですから、何ともうさん臭いと思いませんか。

葬者乘生氣也 五氣行乎地中 然而生乎萬物、
人受體於父母本骸、得氣遺體受廕、
經曰、氣感而應鬼、福及人

葬は生気に乗ずる


五行の氣は地中をめぐり 万物を生む人は体を父母のムクロから受け 氣を得て体を育て のたまわく 死後の氣を受けて 人は福をなす。と伝えています。

いうなれば、“父母の命は大地に帰り 五行の気は大地をめぐり、その生気は 生きている子孫に影響を与えているわけです。“こういった父母のムクロをいい土地に埋葬すれば、いい気が流れ込むが、悪い土地に埋葬すると,家が滅ぶというので、 堪輿学 が必要となりましたし。 巒頭 をみて実際、家系に影響するのですから、いつも死と隣り合わせだった古代中華の人々にとっては重要なことでした。

死後、肉体は、地に戻り万物の源、五行に戻る
葬は生気に乗ずる
父母の命は大地に帰り 五行の気は大地をめぐる、その生気は 生きている子孫に影響を与える

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貧困を救うため 巒頭を見る。

 唐朝末期において政治の腐敗、国の衰退は 多くの国民に焦燥感を与えるのに十分でした。無頼派として要は肩で風切る輩や道徳を嫌って衝突する人間たちで、生業も持たず。 黄巣の乱(唐末期に起きた塩の密売人黄巣らを指導者とする農民の反乱。) にみるように、国の腐敗、国民の腐敗。一つとして正しいことのない唐時代の終わりの鐘が鳴り響く中でも、人は生きていかなければなりませんでした。家族と一緒にいても食べていけない若者は無頼となり 悪少年 軽薄少年と呼ばれ、治安もない時、それでも救済を求める人々もいました。

高官金紫光禄大夫(きんし‐こうろくたいふ)の職 についていた 楊筠松 は、多くの風水の知識を持ち合わせていましたが、それ以上に皇帝,長老の使う風水術を 国の混乱に乗じて 瓊林府庫(けいりんふこ) から運び出し、皇帝のためではなく 貧困にあえぐ庶民、常民に使いました。
それゆえに今の時代になっても,救貧先生としてお札にもなり、玄関に飾っていくほど、人々の心に浸透していきます。

楊筠松 の残した書物

『青囊奥語』『天玉経』『玉尺経』『疑龍経』『撼龍経』『画夾図』『四大穴法』『立錐賦』『拔沙図』『胎腹経』『望龍経』『倒杖法』と多くの書物を残しています。}また現存する中華の古代建築の多くが 楊筠松 の風水理論に基づいて建てられている。
その古代建築は、西安,洛陽,開封,北京,南京,広州に現存しています。
また、風水を風水として位置づけた正針と縫針の羅針盤も作られ龍脈をさがす(望気者)の必須アイテムとなった。

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