中華五術

【風水】地理風水。大地の測量で洪水を防ぐ夏王朝の始祖王、禹

初めての風水

黄河中流いきにて発生した文化的生活をおこなった部族に、夏王朝がある。
夏王朝の始祖王というのが、名前を、娰 文明(じ ぶんめい)後に禹(う)と呼ばれる中華の始祖と言われる黄帝の玄孫(孫の孫)です。

聖人帝王、後に五帝の虞舜(ぐ、しゅん) が納める国において、大洪水によって多くの被害を受けた村の復興のため治水工事をうけおった、 禹の父、鯀(こん)の工事は失敗に終わり、その後を任せられたのが、 娰 文明(じ ぶんめい)後、別名、禹(う)が父の仕事を引き継ぎ治水工事を請け負いました.

そこには父、鯀(こん)が治水工事に失敗し、処刑されたことに対する深い傷もあり、何としても自分が、子の治水工事にを完成させることで、父の汚名を晴らしたいという強い思いがありました。

原始社会において、日が昇る東に 玄関を設け 座山は西に在り、川の近く あるいは湖の近くに住居を受けていたため、洪水が起これば甚大な被害を受けていました。

大型の建物はあまりなく小家が、大家の周りを囲み 東向きに同じように玄関が向いていました。住居区の周辺には、深さ幅ともに6mに及ぶ豪(ごう)が掘られて、他部族の襲撃や、猛獣に対しての対策が取られていましたが、川の氾濫を防ぐことも、処理することもできないまま洪水のたびごとに被害を受けていました。

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禹の実地測量 堪輿

禹のおこなった治水において、このように測量し、地形を調べることは、必然的に大規模工事だったことがうかがえます。今の時代世用に、大型機械があるわけでも、測量の道具があるわけでもないので、人を使った大掛かりな作業を必要としたのでしょう。
しかし、大臣の 太章 堅亥 が歩いて測量するといっても、歩いた歩幅、歩数を割り出して、3次元の図形を作り出すわけでもなく。(史記。夏本記)においても、「身を尺として、量を似て出す」とあり 体の部位を使って調べていることがわかります。

禹のおこなった治水は冀州(きしゅう)から始まり。九つ州(冀州、沇州、青州、徐州、揚州、荊州、豫州、雍州)において大きな成果を上げました。それと同時に、格州で、何がとれるのか、産物をまとめ上げ、税の基準をまとめました。

(淮南子・地形訓) (山海経・海外東経)には時の大臣 太章 堅亥に山河を歩き測量するように命じています。

禹を導く伏羲

体の部位をつかった 測量においては、大人と子供でも寸法が違いますし、男と女でも変わってきます。男同志であったとしても変わっていきます。古代エジプトにおいても人の肘から指先までの長さをキュビットとしていましたし、英国ヘンリー1世の鼻先からまっすぐのばした親指までの長さをヤードとしたというように、寸法を測るのにも基準が必要でした。

とある日、苦労する 禹の前に伏羲があらわれ、岩の上に座り、蛇足を前に垂らし、 禹を招き入れ、一本の長さが一尺二寸の玉でつくった薄板を渡され、この薄板を使い測量を完成させ、治水工事を進めました。このことが、堪輿の始まりでした。また、この際用いたのが洛書 先天八卦でした。

古代中国において、洛書は、鳥龜背書(うきはいしょ)と呼ばれ明堂九宮図の基礎となりました。

東西方向を知り 南北を決めた。

(晏子春秋)古之立国者,南望南斗,北戴枢星,彼安有朝夕哉!

古の国を立てる者は、南に南斗を望み、北に枢星を戴き、以て朝夕を
安んず

いにしえのものは、城や池を直す時、南斗、北極星を望み 南北の位置を決めていた。

禹は、伏羲から一尺二寸の授かった球で作った薄板、玉簡を使い、東西南北を決め、位置を出し、治水工事を進めました。(今でいう風水羅盤(ふうすいらばん)のようなものでしょうか)

禹がおこなった治水工事は、大掛かりな堪輿 風水事業と言えます。土地を見て、強く流れる大地の水をコントロールして海へと流す。大地のコントロールをして、領民の幸せを築き上げてきました。それは、風水という名も現れない時代の地理風水と言えます。

聖人帝王、後に五帝のひとり、舜(しゅん) 死後

山河を収め、多くの治水工事を行い災害を食い止めた 禹に多くの注目が集まりました。人望が厚かった禹です。 聖人帝王、後に五帝の舜(しゅん)が旅先で亡くなると多くの領民に選ばれ、帝位につき、 舜の大臣でもあった皐陶(こうよう)が補佐し大いに国を建て夏王朝を建国してゆくことになる。

皐陶の残した皐陶謨(こうようぼ)に「偽政者のやり方を見ていて、善を賞し、悪を罰する。天を敬い、民を重んじ、政治に励まなければならない」といい。帝舜が亡くなったのち皇帝となった 禹 をほめたたえました。

舜在位14年のある日、演奏会がおこなわれ他ある日、演奏が終わらないうちに雷雨に襲われ、屋根が吹き飛ばされ、楽器が散乱してしまった。その惨状を観ながら、「天下は一人だけのものではない、楽器がかけることなく奏でる歌は美しい。この鐘、磬、笙、筦がそろうことが物語っている」といずれは帝位を禹にわたすことを心にとめるひと時であった。

ここには、中華古来からの思想 天敬思想や、天人合一思想がふかく根づいていることがうかがえる。

禹帝の前の舜帝もまた、盲目の父を助け、異母兄弟のいじわっるに対しても悪口ひとつ言わない実直で素朴に感動した舜に堯帝(ぎょう)は二人娘を与え婿として、位を与えています。

つまり皇帝 堯 が自分の息子ではなく 舜に王位を与え、舜王がなくなと民の推薦で、 禹 が王位につきました。ここには、善を行えば福が来るという 中華の敬天思想がありました。

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天道勸善懲惡,凡人為善得福,為惡則得禍。
☆ 天は善を罰するように忠告し、人間は善のために福を受け取り、悪は不幸を得る。

悪いことをすれば 罰せられ、いいことをすれば、福を受けるということです。

禹と洛書

父の汚名を払拭(ふっしょく)するために治水工事を進めた禹(う)ですが、こうした治水工事をした河が、黄河(こうが)でした。黄河よりでてきた亀の甲羅に書かれていたのが洛書でした。

禹(う)が五帝の舜(しゅん)の命令を受けて、洪水で苦しむ民を助けようという心に打たれて、伏羲があらわれ、河から神龜があらわれ、このように治水工事が進んだのは、何よりも、「民を苦しみより解放したい」という天命をかんじた心に天が動じたことにより起こった奇跡と言えるでしょう。

ここで出てきた洛書は、後世において、周王朝を築いた文王の一族により、後天八卦へと変化を遂げ、伏羲の先天八卦、文王の後天八卦となり、易経において重要な役割を果たすようになります。


聖人帝王、後に五帝の舜(しゅん)にしても、禹帝も、その心根において、民に対して政治を行う政治においてたえず先人の言葉を大切にしてきました。
後世において、書経(しょきょう)として残される皐陶謨(こうようぼ)や古文尚書には、堯・舜から夏・殷・周王朝までの天子や諸侯の政治上の心構えや訓戒・戦いに臨んでの檄文が書かれていますが、政治をする人間の心得が、天をも動かすより大きなものに対して、公(おおやけ)の心が必要であることを伝えています。

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