蔵風得水の法。気を扱う文化。
風水にとって、風と水は重要です。風水にとっては吉地選択は重要な存在なのです。
①に山(龍脈)②に水(水向)③に方位(理気)の三者がそろうことが重要です。
天地人という縦ラインの天気。
山、穴、水という横ラインが重なる場所が人の住む場所が、陽宅となり、陰宅となるならば、膨大なエネルギーを得て、貴人が立つ場所となります。
沖縄風水において、蔡温の目指した、蔵風得水の法も琉球文化の中で、天から下る神(オボツカグラ)と、海の果てからわたってくる神(ニライカナイ)が重なる場所を作り出し、蔵風得水を作り上げてきました。
古来より、人は水のない場所では生きていけません。風は、空気であり、どんな隙間でも駆け抜けていきます。その風を捕らえ、水を介して得たエネルギーが吉地選択には重要なわけです。人が住むによく、生きるによい好環境で生活してこそ安寧を得ることができます。
それが、蔵風得水というわけです。
そのため、地を読み、穴(けつ)を探し出しても、風が強すぎては、気が散ってしまいます。ですので、背後は頑丈な玄武山、周りを守る白虎砂、青龍砂と四勢(しせい)となるように、北の山は高く気穴を守り、周りを囲む砂(青龍砂、白虎砂)により守られ緩やかな地に気はたまり、水を介して、人を包み込むため、人を生かす水は、甘露(かんろ)のよき水となり人の生命力となる地を四神相応の地として吉地選択したのでしょう。
随王朝、唐王朝時代、ある程度の風水に対しての考え方がまとまってきた時代を過ぎ、成長著しくなると、多くの人々の考えが混在し、迷走する時期を迎え、原点回帰の時代を迎えます。
人の文明文化を観ると、草創期。成長記、発展期を越えて、低迷、混迷の後、再考察し、一段階あがるといった歴史を繰り返しています。
これは、易学、風水学 環境学においても同じ事が見えます。
今の時代、ただ、こうなっているからと言ってただ信じるというものでもありません。実証がすべてでもありません。まだまだ世の中には、分からないことは多くあります。
風水は、「気」を扱う環境整備法でもありますが、根底に流れる「気」もはっきり言ってよくわからないと言えます。しかし、無いとも言えません。こういった、「気」の検証を続けてきた歴史といえます。
現代は、文明文化に対しても科学的というように証明を求めますが、身近なことを考えてみると、一昔前、植物繊維は、栄養もなく、人に吸収さえないから役に立たないと言われたものが最近ではどうでしょう。体に吸収されないが、胃腸の動きを良くして、体の中の老廃物を出してくれるので、よく取りましょうと言われます。
私たちが経験として、得たものを排斥するのは簡単です。しかし時がたち見直されるものも多くあるのではないだろうかと考察すべきではないだろうか。
神話期
盤古(ばんこ)伏羲(ふぎ)女媧(じょか)神農(炎帝)蚩尤( しゆう)黄帝 (こうてい)蒼頡(そうけつ)燧人氏(すいじんし)嚳(こく)堯(ぎょう)舜(䑞、しゅん)禹(う)の活躍した時代。
神話の期間の登場人物は、人とは言えない異形の存在が多く出てきますが、森羅万象のもとになった盤古。曲尺とコンパスをもって、人を創造した伏羲、女媧、 あらゆる食べ物を毒見して、薬の神となった神農。
五帝、嚳(こく)堯(ぎょう)舜(䑞、しゅん)禹(う)
と続き、先天八卦、易経 堪輿と現代に続くさまざまな技術や技法の基礎を築き上げています。
神話時代の人の創造(ミャオ族の逸話)
盤古は巨大な神の化身で長く生きた後、死んでその体で、この世の万象をつくりその後に出てきた伏羲と女媧は兄妹でした。
伏羲と女媧は兄妹は、玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)の怒りにより大きな洪水に見舞われました。しかし、親切な仙人により、ひな形の籠船に乗り難を逃れ、地に立つと、何もなく。伏羲と女媧だけが大地に立ち、世の中に2人だけが取り残されてしまいました。困った伏羲と女媧は何度も話し合い。人類を残すために兄妹ではあるけれど、伏羲が夫婦になろうと迫りました。
女媧は、夫婦になるのを拒んでいましたが、らちが明かないので、伏羲に「私が、大きな山の周囲を走るので、追いついたら結婚しましょう。」と提案し同意した伏羲が女媧をおいぁけましたが、7周まわっても追いつけません。
その時、亀があらわれて「逆にまわれば捕まえることができる」と教えると、その通り走ってきて、女媧を捕まえることができたが、女媧は「亀が教えて私を捕まえることができたのだから、納得いかない」といい
伏羲が、山の上から互い臼(うす)を転がしふもとで合わされば結婚しようというと、提案し、そのようにしてみると、あら不思議、山を転がる二つの臼が重なり、ぴたりと一つになり、伏羲と女媧は結婚することになりました。
兄妹で結婚した伏羲と女媧でしたが、最初に生まれた子供は、肉の塊でした。怒こった伏羲が肉の塊を切ったところ、二つに分かれ、それぞれが人になりました。
このように人の創造をして、その人に天地の法を伝えたのも伏義と女媧でした。伏義は天を見て地に先天八卦を当て込み、女媧は、人に生きる方法を伝えました半人半獣の神話時代の存在です。
草創期、
前漢代から東晋代期 紀元前206年ー西暦50年頃。
管輅は堪輿、五行、相宅を観て、天の日月星辰を読み、四神を最初に説いた風水の祖ともいえる人物です。
郭璞もまた天文を読み、地に八卦を表した人物でした。宅相、墓相を読み解き、山の勢いを観て、勢(せい)形(けい)を教える葬書を残した人物です。風水という名をつけ相地術から別物へと引き上げた人物でもあります。現在の風水学の基本的理論は郭璞によるものが大きいいと言ってよい。
またこの時代、恩師の劉弘のもとでおおいに学んだ大風水師、陶侃(とうかん)がいます。
また、土地を観て、牛が横たわり眠った形をした牛眠地を見つける望気師、淳干智(じゅんうち)外巻いた。淳干智は落ち着いた性格で、正しく筋の通った思想家でした。
彼は、若いころに書生になり、易による占いや、善厭(お守りの護符)を使う術に長けていた人物でした。
草創期において、周王朝の初代王武王の父王、文王は、後天八卦、六十四卦を見つけ出し、一つの文明圏を築き上げています。その文王を非常に好いていたのが、孔子です。
孔子は儒教の祖ともいわれていますが、五十歳すぎてから、先天八卦、後天八卦をよく研究しています。
草創期において名をのこした人物は、今の中華においても、多くの人が知っている風水師たちが活躍した時代でもあり、(周易と陰陽五行説)が発達し、「気」という言葉が発生した時代でもあり、望気者(ぼうきしゃ)といった龍脈を探すものも出てきました。
それと同時に、選地術としての相地術が広く横行し、望気者、堪輿家と名乗る者もあらわれたのもこの時代です。
全盛期
唐代から南栄代期 西暦610年頃から西暦1280年
楊筠松(よういんしょう)救貧先生と呼ばれた楊公は、唐の僖宗(きそう)が即位していたころに活躍していた風水先生です。現代においても楊氏嫡流を自称する風水師も多く。風水で使う羅盤(らばん)も楊公が製造したともいわれるほどに影響の大きい人物です。楊筠松の高弟、曾文迪(そぶんてき)も龍脈、穴を探す天才肌の人物でした。
楊筠松(834年-900年)曾文瑞(そんぶんたん)寥金精(りょうきんせい)(943-1018)頼布衣(らいふい)(1096年-?)の四大名家が活躍した時代です。
邱延翰(きゅうえんかん)(650年~741年)が書き残した『玉函経』(ぎょくかんきょう)を玄宗皇帝の書庫から持ち出しその技術で楊筠松は多くの人を救いました。邱延翰もまた、貧困にあえぐ人々を救えと、五獄の泰山において、仙人から、「海角経」という風水秘伝書を渡されています。
依時代において、頼布依(らいふい)によって見つけ出されたのが、三合羅盤、人盤による鑑定の方法があります。北斗七星を使い運気を定めた方法をみつけだしました。
この時代は、風水が学問として成立し、儒教学者の朱子(しゅし)や蔡牧堂、蔡季通も風水を研究し、巒頭、理気という思想が生み出され伏羲、文王、孔子の三古による易経をベースとして、風水は確固とした基盤を築いた時代でもあります。
発展,迷走、混乱期
元代から清代初頭期。西暦1280年頃から1650年頃
四大名家の影響は国を超え、アジア圏に多く知れ渡り、それぞれの国でも発展してゆきます。
学術としての風水学、儒教、道教と重なってゆく中で、多方面に進み、各地で、風水師を名乗り、巒頭、理気 護符と入り乱れ混迷を期していきます。
この時代は、江西学派と福建学派の二大派と諸国における少数派にと分かれ、陳摶(ちん たん、872年 – 989年)賴文俊、朱熹(しゅき)蔡元定(さいげんてい)といった道士、朱子学者と思想家による風水研究がなされた時期でもありましたが、その反面。
モンゴル高原に拠点を置くモンゴル人の支配した元(げん)王朝時代においては、定住を持たない移動民族でもあり、土地を観るといったことよりは、騎馬民族特有の武力優勢による思想が強く風水は邪道となり、相地術、選地術の類は禁止されたこの時代において、風水が衰退する一因にもなりました。
元の由来
易経の 乾元をもとに国名がつけられたと言われいます。大いなる乾元とも、乾いた土地の本ともいわれています。
元(げん)王朝以降 明王朝時代に入り、各流派における風水復興運動が展開され、乾いた大地に雨が降り芽吹くように様々な宗派が出てきます。
その中でも頭角を見せるのが、劉伯温(劉基)でした。郭璞のごとく、星読み、天地の八卦を読み、明の太祖・朱元璋を補佐した博学天才であった。
また、風水において三元九運説も、この時代に生まれた目講僧(幕講僧)により見つけ出されました。
各地で多くの望気者、風水師たちがいました。その者たちは、「我こそは、孔子の直系、我こそは、管輅の正当受者、風水名家の出である)と雨後のタケノコのように出た時期でもあり、僧侶、景経信者(キリスト教)儒教者、道士と、混在していて、どれが真実かわからないという混乱期に入ってゆきます。
目講僧(幕講僧)
明代風水マスターで名はわかりません。
浙江省奉化市奉化市王家村の入り口に羅星塔があり、ネジのように見えるので、一般の人はネジ塔と呼ばれる塔です。(北は悪霊が強すぎると言い、風水と陰陽を使い羅星塔を築いた人物です。しかし元運法と言われる三元九運や、天体観測にたけた人物でした。
衰退、転換期
清王朝時代中期から現代。 1650年から現代。
世界的に文明が急速的に発展してくる時代でもあります。中国において天水地震が起こり、石造、木造の帰依が崩壊し3万人もの人が亡くなり、日本においても明暦の大火により10万もの人が命を落とすほどに、世界が混乱していました。
そのような時代において、風水の立場は、目に見えない「気」をあつかい 方位により気の質が違う、山のかたちで龍脈がちがうと 真偽混在の時期が長く続いたために、清王朝の皇帝 康熙帝(こうきてい)の時代には、次第に風水が批判、否定されていきます。
長い中華歴史の中で、培ってきた陰陽五行、堪輿、風水、子平は奇々怪々の有象無象と同じと先代時代の作り物というように退けられていきます。
いつの時代も、先代時代を批判し破壊するのは世の常なのでしょうか、
文明文化を批判し否定することで、我々が一番と言いますが、それは、ただ単に周りを掘り下げて見下して、上に立っただけで、高く上昇したわけではありません。
日本のことわざにある 出る杭は打たれる的思考は、全然成長していないのではないと思います。
書物を燃やしたり、建築物を破壊したり、そんな歴史の繰り返しで現代は成り立っています。
これからは、人の幸せは、全体が引きあがる生き方でありたいと思います。